ミステリーとしての読みどころ
ロンドンの一角、エドワード朝の佇まいをそのまま閉じ込めたかのような老舗ホテル「バートラム」。重厚な木の調度、暖炉の前で供される完璧なマフィン、白髪の紳士と気品ある淑女たち――そんな「古き良き英国」の幻燈のなかへ、甥のレイモンドからの贈り物で二週間の滞在に訪れたミス・マープルが足を踏み入れる、後期マープル屈指の異色作です。
事件は静かに、しかし不穏に立ち上がります。各地で続発する大胆な列車強盗、ホテルに滞在していたはずの牧師ペニーフェザーの不可解な失踪、そして冒険家として浮名を流してきたレディ・ベス・セジウィックと、その娘エルヴィラ・ブレイクをめぐる微妙な距離感。やがて深夜のホテル前で銃声が響くに至り、デイビー主任警部の捜査線とマープルの観察眼がゆっくりと一点に重なっていきます。
本作の見どころは、いわゆる派手な不可能犯罪ではなく、「古き良きものは本当に昔のままなのか」という問いそのものを謎の中心に据えた構造にあります。あまりにも完璧なエドワード朝のホテル――その完璧さに対してマープルが抱くかすかな違和感が、読み手の足元を少しずつ揺らしていく感触は、舞台ミステリとしても極上です。
マープルの登場場面は決して多くなく、むしろ脇から事態を見守る位置に徹していますが、だからこそ「セント・メアリ・ミードの老婦人」としての観察力が、ロンドン市街の老舗ホテルという華やかな舞台に対してくっきりと浮かび上がります。乾信一郎氏による訳文も、ホテルのロビーに漂う紅茶と古い木材の匂いまで連れてくるような、しっとりとした手触りで、舞台の空気感を堪能できます。
派手なトリック小説ではありません。けれども「場所そのものが孕む嘘」を扱った一篇として、また母娘というモチーフを冒険家ベス・セジウィックという強烈な人物像で貫いた一篇として、後期クリスティの達成を示す一冊です。ホテルもの・ロンドンものがお好きな方、そしてマープル物の中でも少し変化球を読んでみたい方に、静かに推させていただきます。