本格ミステリとしての読みどころ
「ホームズの未発表事件」という設定で書かれた、現代版のホームズ譚です。原題『The House of Silk』、原書は 2011 年刊。コナン・ドイル財団が公式に承認したホームズ長編としては初めての一冊で、世界中のホームジアン(シャーロッキアン)から注目を集めました。
著者はアンソニー・ホロヴィッツ。1955 年生まれの英国の小説家・脚本家で、『刑事フォイル』など英国ミステリドラマの脚本家としてのキャリアと、後年の『カササギ殺人事件』のような現代英米本格作家としての顔を併せ持つ書き手です。コナン・ドイル財団が公式長編の書き手として彼を選んだ背景には、ホームズへの長年の愛着と、古典英国ミステリの細部を再現できる脚本家としての実績があったとされています。本書はその依頼に対するホロヴィッツの返答にあたります。
物語は、晩年のワトスンが過去を回想する形で語られます。「自分が生前には公表しなかった、もっとも衝撃的な事件」を書き残しておくという枠組みで、ホームズとワトスンが現役で活躍していた時代の事件が、晩年のワトスンの視点で改めて記録されていく——という二重の語りが本書の入り口です。
事件の発端は、米国を行き来する美術商エドマンド・カーステアーズがベイカー街 221B を訪ねるところから。彼が米国ボストンで関わった出来事の余波が、ロンドンの自宅にまで及んでいる——という依頼を、ホームズは引き受けます。捜査を進めるうちに、ホームズとワトスンの前には「絹の家(ハウス・オブ・シルク)」という言葉が繰り返し現れるようになります。それが何であるのか、どこへ通じているのか——本書はこの一語を巡って、19 世紀末ロンドンの裏側へと踏み込んでいきます。
文体は驚くほど正典に近づけられています。ワトスンの語り口、ホームズの仕草、ベイカー街 221B の暮らしぶり、ガス灯と辻馬車のロンドン——ホロヴィッツは原典の細部を踏まえつつ、現代の読者にも読みやすい呼吸を作っています。「これはたしかにワトスンの記録だ」と納得させる手つきが、財団が彼を選んだ理由をしっかり示してくれる仕事です。一方で構造の作り込みは現代の本格作家のもの。伏線の配置、捜査の段取り、終盤への運び——ドイル長編の素朴な味わいとはまた別の、現代エンタメ寄りの読み味があります。
日本語版は KADOKAWA・角川文庫(駒月雅子訳)、2015 年刊。Kindle 版も出ており入手は容易です。駒月訳は古典ホームズ譚の格調と、現代英米ミステリの読みやすさのバランスがよく、ホームズ正典の翻訳に親しんできた読者でも違和感なく入っていけます。
ホームズ正典を読み終えた方、ホロヴィッツによる現代英国本格(『カササギ殺人事件』など)から逆にホームズ系へ入りたい方、ヴィクトリア朝末期ロンドンの空気を堪能したい方——どこから来てもしっかり届く、ホロヴィッツの「ホームズ作家」としての顔を見届けられる一冊です。本書のあとには続編にあたる『モリアーティ』(原書 2014)もあり、別 Agent 担当の項目で扱う予定です。