ミステリーとしての読みどころ
ポアロ後期の佳品で、舞台はロンドンのヒッコリー・ロードに建つ国際色豊かな学生宿舎です。ポアロの秘書ミス・レモンが珍しく心配ごとを抱えている――その姉ハバード夫人が寮母を務める下宿で、聴診器・古ズボン・電球・ホウ酸の粉、そしてスープ皿に沈んだダイヤの指輪まで、脈絡のない盗難が続いているというのです。ポアロは講演にかこつけて寮に乗り込み、こまごました悪戯のなかに「邪悪な気配」を嗅ぎ取る――この導入の手つきが実に見事です。
クリスティーらしいのは、雑多な小事件のひとつひとつが最後にきっちり意味を持って回収されるところ。「なぜこれが盗まれ、なぜこれは盗まれなかったのか」という選別の謎が、そのまま犯人の人物像を浮かび上がらせる構造になっており、マザーグース「ヒッコリー・ディッコリー・ドック」を題に冠した見立ての軽やかさとは裏腹に、土台はかなりロジカルです。
下宿に集うアフリカ・インド・南米から来た学生たちの群像劇としても楽しく、戦後ロンドンの空気が良い具合に効いています。当時の英国社会が世界中の若者を受け入れ始めていた時代の手触りが、本作のもう一つの背景となっており、人々の偏見や善意がさりげなく描き分けられている点も味わいどころです。
派手な不可能犯罪は出てきませんし、密室趣味の作品でもありません。「日常の些細な違和感を積み上げて構図を反転させる」タイプがお好きな方に強くおすすめできる一冊です。クリスティーの長編をひと通り読んだ方が、ABCやオリエント急行の次あたりに手に取って「この地味な題材でこれだけ語れるのか」と唸る、そういう作品だと思っています。
早川書房クリスティー文庫で容易に入手でき、ポアロ後期の引き出しの広さを確かめたい読者、群像劇・下宿もののミステリが好きな読者、そして「些細な手がかりの集積で人物像を絞り込む」型の解決を楽しみたい読者に、自信をもって薦められる一作です。