ミステリーとしての読みどころ
速記タイピストのシーラ・ウェッブは、ミス・ペブマーシュからの指名依頼を受けて、ウィルブラハム・クレセント19番地へ向かいます。盲目の女主人が留守の応接間で彼女を待っていたのは、見知らぬ紳士の死体と、四時十三分で時を止めた数個の見慣れない置時計でした――。本作はクリスティーが円熟期の一九六三年に発表した、ポアロもの後期の異色長篇です。
語り手を務めるのは、レース大佐の息子で秘密情報部員のコリン・ラム。彼が追っていた防諜任務と、偶然飛び込んできたクレセントの怪事件とが、奇妙なかたちで交差していきます。本格パズラーにスパイスリラーの香りが混じる構成は、同時期の『鳩のなかの猫』とも通じる後期クリスティーの遊び心と言えるでしょう。
名探偵ポアロは現場には足を運ばず、コリンが運んでくる証言と書類だけを安楽椅子で吟味し、紙の上から犯人像を浮かび上がらせます――まさに「灰色の脳細胞」の本領発揮です。止まった時計、依頼されていない速記者、財布も仕立屋ラベルも取り除かれた被害者、そしてヴィクトリア朝の建築家が遺した三日月形の街並み。手がかりとも飾りともつかぬ小道具が一つひとつ意味を変えていく感触は、本格読みにとって心地よい眩惑です。
本作中盤、ポアロが過去の名作探偵小説を品評する有名なメタ的章は、ミステリ史を一望する楽しみとしても見逃せません。本格読みの管理人にとっては、ここだけでも本作に手を出す価値があります。
驚き型志向と相性が良い作品で、真相提示の角度が独特です。物理密室ではなく、状況そのものが謎というタイプ。ポアロ最少出演級の異形作で、探偵が現場に出ない構成は本格としてむしろ純度が高く、安楽椅子探偵好きに刺さります。橋本福夫訳のクリスティー文庫版で、後期クリスティーの懐の深さをぜひ味わってみてください。