ミステリーとしての読みどころ
クリスティー後期、1962年発表のミス・マープル長編。穏やかだったセント・メアリ・ミードにも新興住宅地の波が押し寄せ、村の旧家ゴシントン・ホールはハリウッドの大女優マリーナ・グレッグの手に渡ります。彼女の歓迎パーティで、地元の世話好きな婦人ヘザー・バドコックがカクテルを口にした直後に急死してしまう――誰が見ても標的はマリーナだったはず、なのになぜヘザーが死ななければならなかったのか。
本作の核は、フーダニットでもハウダニットでもなく、徹底したホワイダニットです。手がかりはごく早い段階で読者の前に置かれています。階段を上ってきた招待客にマリーナが見せた、凍りついたような奇妙な表情。テニスンの「シャロットの女」の一節「鏡は横にひび割れて」が、その瞬間の彼女の内面に重なる――この一行を題に据えた時点で、クリスティーは事件の本質を堂々と提示しているわけです。
着想の元になったのは、ハリウッド女優ジーン・ティアニーが妊娠中に風疹に罹患し、娘が先天性障害を負ったという実話だと言われています。クリスティーがあるパーティで本人から直接その逸話を聞いたという伝承もあり、本作の動機には現実の悲劇の影が色濃く落ちています。
それでも真相が明かされたときの衝撃は色褪せません。ヘザーという人物がパーティで何を語り、それがマリーナにとって何を意味したのか。動機が浮かび上がった瞬間、退屈にすら見えた村の井戸端会議も、マープルが集める断片的な噂話も、すべてが一本の線で繋がります。被害者と動機の落差、そこに横たわる長い年月の哀しみ。後期クリスティーの円熟をもっとも端的に味わえる一作です。
派手なトリックはありません。けれど「人間が人間を殺す理由」を描かせれば、この作家にかなう書き手はそういない。マープルが村で年齢を重ねながら世界の変化を眺めているという設定そのものが、本作の主題と静かに響き合っています。1980年にはエリザベス・テイラー、アンジェラ・ランズベリー、キム・ノヴァク、ロック・ハドソン、トニー・カーティスという豪華キャストで映画化された(邦題『クリスタル殺人事件』)ことも、本作の人気と完成度を物語ります。
クリスティーをひと通り読んだ方にも、これから入る方にも、自信をもっておすすめできる本格ミステリの古典です。橋本福夫訳のクリスティー文庫版で読めます。