本格ミステリとしての読みどころ
「次の事件は A の町で A の頭文字を持つ人物を狙う」——名探偵のもとに予告状が届き、その通りに事件が起きていく。本格ミステリにおける「挑戦状型連続殺人」の代表的な一冊が、本書『ABC 殺人事件』です。原書は 1936 年 1 月 6 日に英国コリンズ・クライム・クラブから刊行されました。
著者はアガサ・クリスティー。原題は『The ABC Murders』。物語の発端は、ポアロのもとに「ABC」と署名された奇妙な手紙が届くところから始まります。アンドーヴァー(Andover)でアッシャー夫人(A)が、ベクスヒル(Bexhill)でベティ・バーナード(B)が、チャーストン(Churston)でカーマイケル・クラーク卿(C)が——と、町と被害者の頭文字をそろえた事件が次々に起きていきます。各現場には『ABC 鉄道案内』(ABC Railway Guide、当時の英国で広く使われていた汎用時刻表)が一冊ずつ残されているのが特徴的なモチーフです。
捜査を担うのはポアロと、語り手ヘイスティングス、そしてスコットランドヤードのジャップ警部。シリーズおなじみの三者が揃った長編で、ヘイスティングスの一人称を主軸に物語が進みます。これに加え、本作には別人物の視点で語られる短い章が章間に挿入されるという、ちょっと変わった構成が採られていることも特徴の一つです。読者にどの情報をどの順序で渡すかというクリスティの視点操作の巧みさが、よく現れています。
本作の意義は、クリスティが「連続殺人(serial killing)」というモチーフを、フェアプレイの本格ミステリのなかで成立させたことにあります。発表当時はまだ「serial killer」という言葉も普及していない時代で、本作は連続殺人を扱う物語としても先駆的な位置を占めます。アルファベットの進行という公開された見立て、挑戦状による探偵への直接的な挑発、事件の全体像が見えて初めて意味をなす論理——本格としての要素を保ちながら、サスペンスとしての緊張感も併せ持った構成が、長く読み継がれてきた理由でしょう。
『ABC 殺人事件』というタイトルから連想される、いわゆる「見立て連続殺人」もの・「予告型シリアルキラー」もののフォーマットには、本作の影が必ずどこかに差しています。後発の作家、後年の映像作品にいたるまで、繰り返し参照されてきた一冊です。
日本では早川書房クリスティー文庫の堀内静子訳で容易に入手でき、Kindle 版や、より新しい田口俊樹訳のジュニア版『名探偵ポアロ ABC 殺人事件』(ハヤカワ・ジュニア・ミステリ)もあります。挑戦状型・予告型の本格に興味がある方、見立て連続殺人ものの古典を一冊押さえておきたい方、クリスティの代表作群から本格寄りの一作を選びたい方に、どの入り口からでも勧められる、王道の代表作です。