本格ミステリとしての読みどころ
英国黄金期本格を代表する作家を挙げるとき、クリスティ、セイヤーズ、クロフツと並んで外せないのがアントニイ・バークリーです。本書『試行錯誤』は、そのバークリーの個性が最も鮮やかに発揮された長編の一つ。原書は 1937 年刊行、原題『Trial and Error』。創元推理文庫から鮎川信夫訳で読めます。
著者はアントニイ・バークリー(本名 Anthony Berkeley Cox、1893-1971)。英国の推理作家で、ディテクション・クラブの創設者の一人としても知られます。代表作には多重解決ものの『毒入りチョコレート事件』(1929)、シェリンガム探偵もの諸作、フランシス・アイルズ名義の倒叙『殺意』(1931)などがあり、本格のフォーマットを内側から揺さぶる作風で評価されてきました。本作はバークリー後期の長編で、『毒入りチョコレート事件』に登場した素人探偵アンブローズ・チタウィックが再び姿を見せる作品でもあります。
物語の主人公はローレンス・トッドハンター。物静かで地味な独身の老紳士です。あるとき医師から動脈瘤の診断を受け、余命わずかであることを宣告されます。友人たちとの夕食後の雑談で「もし数か月しか命がないとしたら、世のためになる行いとして何ができるか」という話題になり、その流れの中でトッドハンターは「世間に害をなしている人物を一人だけ消す」という、いささか過激な選択肢に心を動かされていきます。
そこから物語は、彼が「ふさわしい標的」を吟味し、計画を立て、行動に移していく過程を描いていきます。最初に頭に浮かぶのはムッソリーニやヒトラーといった独裁者たちですが、現実的でないと考え直し、やがて身近な世界に目を向けていくことになります。慎重に行為を実行したあと、トッドハンターは責任を取るつもりで警察に出頭する——という、ここまでなら倒叙ミステリの導入として読める運びです。
ところがバークリーの本領はそこから先にあります。トッドハンターが「自分がやった」と告げても、警察は彼の自白をまともに受け取らない。代わりに別の人物が容疑をかけられて法廷に立たされてしまう——という、本格ミステリ史でもなかなかお目にかかれない「自白が通らない」プロットが起動します。本物の犯人であるトッドハンターは、無実の他人が罪を着せられるのを防ぐために、自分こそが真犯人であると論理的に証明しなければならなくなる。フェアプレイ本格の作法をひっくり返して走らせる、その骨格の妙が本作の核心です。
文体は皮肉とユーモアを湛え、トッドハンターの真面目で愚直な人物像と相まって、独特の温度感を生んでいます。重い題材(命の期限、殺人と正義、法の運用)を扱いながら、読み心地は意外なほど軽妙。論理推理の組み立ても黄金期本格としての精度を保ちつつ、法廷ミステリの興趣も加わってくる構成で、後半に向けて読み手の頭をしっかり動かしてきます。
入手は創元推理文庫(鮎川信夫訳)で。Kindle 版も流通しています。クリスティやセイヤーズに加えて英国黄金期本格の引き出しを広げたい方、倒叙ものに少し変わった角度から入ってみたい方、「型を持って型を崩す」本格ミステリに興味がある方に勧めたい一冊です。『毒入りチョコレート事件』を先に読んでおくと、再登場するアンブローズ・チタウィックの存在感がさらに楽しめます。