本格ミステリとしての読みどころ
本格ミステリ短編の規範を作った一冊が、本書『シャーロック・ホームズの冒険』です。原題は『The Adventures of Sherlock Holmes』、〈ストランド・マガジン〉に1891年7月号から1892年6月号まで毎月掲載された12編をまとめ、1892年10月に George Newnes 社から単行本として刊行されたホームズ短編集の第1集にあたります。
著者のアーサー・コナン・ドイルは1859年エディンバラ生まれ。エディンバラ大学医学部で学んだ医師でもあり、学生時代の恩師ジョセフ・ベル教授の鋭い観察眼と推論術が、ホームズという人物像のひとつのモデルになりました。長編『緋色の研究』(1887)と『四つの署名』(1890)で世に出ていたホームズが大衆的な人気を獲得するのは、本書の元になった〈ストランド・マガジン〉連載が始まってからのことです。「同じキャラクターで毎号別の事件を解決する」という連作短編形式が、この連載で広く定着しました。シドニー・パジェットによる挿絵が誌面に登場したのもこの連載からで、現在にまで続くホームズの視覚イメージはここで作られています。
収録作は刊行順に「ボヘミアの醜聞」「赤毛組合」「花婿の正体」「ボスコム谷の謎」「オレンジの種五つ」「唇のねじれた男」「青いガーネット」「まだらの紐」「技師の親指」「独身の貴族」「緑柱石の宝冠」「ぶな屋敷」の12編。アイリーン・アドラーが登場する「ボヘミアの醜聞」、奇怪な前提から論理で解いていく「赤毛組合」、クリスマス・ホームズの代名詞「青いガーネット」、後の密室短編に多大な影響を残した「まだらの紐」など、ホームズ短編史で最も繰り返し読まれてきた作品が顔を揃えています。
読みどころは、まず1編完結のリズムの良さ。依頼人がベイカー街を訪れ、ホームズが些細な観察から職業や行動を読み取り、現場で物的証拠を解釈し、推論で謎を解いていく——後の本格短編で当たり前になる型が、本書ではすでにきれいに整っています。短い枚数の中に依頼の異常さ・推論の鮮やかさ・ヴィクトリア朝末期のロンドンの空気が同居していて、寝る前に1編、通勤の往復で1編、というスキマ読書が驚くほどよく機能します。
もうひとつの読みどころが、ホームズとワトスンの関係性そのもの。本書の時点でホームズの傲慢さ、退屈への弱さ、観察への執着、ワトスンの誠実さと驚き役としての厚みが、ほぼ完成形で書かれています。霧、ガス灯、辻馬車、貴族の屋敷、植民地帰りの退役軍人——という英国黄金期ミステリの意匠も、本書を通じて世界の読者に刷り込まれていきました。
入手は容易で、創元推理文庫(深町眞理子訳)、光文社文庫(日暮雅通訳)、新潮文庫(延原謙訳)、角川文庫(駒月雅子訳)などが現役、電子書籍も豊富です。新訳系はいずれも訳者注が親切で、初読の方も安心して入れます。気に入ったら『シャーロック・ホームズの思い出(回想)』『シャーロック・ホームズの帰還(復活/生還)』『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』『シャーロック・ホームズの事件簿』と短編集がもう4冊続きます。
ミステリでちょっと頭が疲れたとき、もっとシンプルに名探偵の推理を楽しみたいとき——本書はその気分に静かに応えてくれる、本格短編の出発点です。