本格ミステリとしての読みどころ
『そして誰もいなくなった』について、内容に深く踏み込んで語ることは控えなければなりません。これは紹介する側の臆病からではなく、本作という作品の性質そのものから来る制約です。何も知らずに最初の数十ページを開ける——その経験を奪ってはいけない、と思わせる一冊。本格ミステリ史にこういう本はそう多くありません。
著者はアガサ・クリスティー。原書は 1939 年に英国コリンズ・クライム・クラブから刊行されました。同じ年の 6 月から 7 月にかけて、英国の新聞デイリー・エクスプレスにも連載されています。クリスティはこの時期すでに『アクロイド殺し』『オリエント急行の殺人』『ABC 殺人事件』など多くの代表作を発表していましたが、本作はシリーズ探偵を持たない単発長編という、彼女としては異例のかたちで書かれました。
舞台は、英国デヴォン州の沖合に浮かぶ小さな孤島。そこに、互いに面識のない男女 10 人が、それぞれ別の招待状に導かれて集まってきます——というところまでで、物語の入り口の説明はもう十分でしょう。あとは本を開き、彼らと一緒に島へ渡るのが正解です。
不思議な作品です。発表から 80 年以上が経ち、本作の存在をまったく知らないという読者はもう日本でもほとんどいないはずです。タイトル、童謡、孤島、招待状——構成要素のいくつかは、ミステリを読まない人にすら聞き覚えがあるかもしれません。にもかかわらず、実際に本書を読み始めると、毎回必ず何かに掴まれます。「あらすじを聞いたことがある」と「読んだことがある」のあいだに、本作ではとてつもなく深い溝がある。
その理由は、おそらく本作が単に仕掛けで読ませる小説ではないからです。10 人の登場人物それぞれが島に集まるまでの序盤の章立て、彼らがどんな人生を背負ってきたか、誰が誰をどう見ているか——そうした人物の手触りが、後半の緊張のただなかで生きてきます。クリスティの構成の精度が、彼女の長い書き手生活の中でも特に高い水準で結晶した一冊。何も語らないことで、何かを語ろうとするとき、本作は見本のような姿で本棚の奥に立っています。
本作は世界でもっとも売れた推理小説と呼ばれます。発行部数は累計 1 億部を超えるとされ、「世界中で最も読まれているミステリ」というやや空恐ろしい肩書きの持ち主です。100 以上の言語に翻訳され、舞台・映画・テレビドラマ・ゲームと、媒体を変えながら何度も人々のもとへ届けられてきました。「世界一売れている」というだけなら別に作品の内実とは関係ありませんが、本作の場合、その数字は「読んでみると納得する」種類のものです。読み終えた後、なぜこの本が国境も世代も越えて読み継がれているのかが、自分の中の感覚として残ります。
日本では早川書房クリスティー文庫の青木久惠訳で容易に入手でき、Kindle 版や Audible 版もあります。クリスティ作品をこれから読むなら、本作と『アクロイド殺し』、そしてポアロ系列の代表作を 1 冊。この 3 冊を順不同で読むのが、黄金期英国本格への確実な入り口です。本作については、読み始める前のあなたの「まだ知らない状態」が、いちばんの財産だと思って読んでみてください。