本格ミステリとしての読みどころ
1935年(昭和10年)に松柏館書店から刊行された夢野久作の長編『ドグラ・マグラ』は、著者が構想と執筆に10年以上の歳月を費やした畢生の作で、刊行翌年に夢野が急逝したため実質的な遺作にあたります。小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、中井英夫『虚無への供物』と並んで「日本探偵小説三大奇書」と総称される、戦前本格の特異点です。角川文庫の上下巻(1976年文庫化)として現在も入手しやすく、本書はその上巻にあたります。
著者の夢野久作(1889〜1936)は福岡出身。新聞記者をはじめ多彩な経歴を経て探偵小説界に登場した作家で、独特の文体と妄想的世界観は同時代の探偵小説とも一線を画しました。本書の角川文庫版に「本書を読破した者は、必ず一度は精神に異常を来たす」という惹句が掲げられていることは広く知られており、刊行当時から現代まで「読書体験そのものが事件になる」種類の長編として語られてきました。
物語は、青年が見知らぬ部屋で目覚めるところから動き出します。自分が誰なのか、なぜここにいるのかも思い出せない。やがて若林という医師が現れ、舞台が九州帝国大学医学部精神病科の一室であること、そして青年自身がある事件の重要参考人かもしれないことを告げます。さらに若林は青年に、ある手記を読ませる。その手記の題は「ドグラ・マグラ」——いま自分が読んでいる文章が、まさにこの小説の冒頭そのものではないか、と青年は気づくことになります。
この自己言及的な入れ子構造が、本作をミステリ史の特異点に押し上げる最大の特徴でしょう。物語の「外側」にいるはずの読者がいつのまにか「内側」に取り込まれていく感覚。記憶を失った主人公の視点に同化していくうちに、読み手自身の判断軸も揺らぎ始めます。謎が解けるのか、主人公は本当に事件に関与しているのか、若林の語りは信頼できるのか——問いを立てるほどに、その問い自体が回転していきます。
三大奇書の中では『黒死館殺人事件』が最難解とされますが、本作も平坦な読書とは無縁です。作中に挿入される「胎児の夢」「キチガイ地獄外道祭文」といった異様な体裁の文章群は、物語の論理を支えると同時に、読者の足元を崩す装置として機能します。現代の本格読者にとって本作は、信頼できない語り手・揺らぐ視点・構造的な自己言及といった技法が1935年の日本でここまで突き詰められていたことの記念碑として読める一冊で、特殊設定本格や叙述系本格を読み慣れた人ほど、本作の早すぎた到達点に驚かされるはずです。
角川文庫上巻では、若林との対話と病棟内の状況提示が主軸になります。下巻(0092)と合わせて読み通すことで、ようやく全体の輪郭が見えてくる構成。三大奇書のうちどれから手をつけるか迷っている読者には、難解さよりも「物語の渦に巻き込まれる読書体験」を求める時に本作を勧めたい一冊です。
(出典: Wikipedia「ドグラ・マグラ」「三大奇書」/ KADOKAWA公式)