本格ミステリとしての読みどころ
1954年9月、洞爺丸の転覆という実際の大惨事の翌朝から、中井英夫の物語は始まります。その事故で両親を失った氷沼家の兄弟・蒼司と紅司、その従弟の藍司、そして彼らの周囲の若者たちが、密室の風呂場で起きる紅司の変死を皮切りに、連鎖していく謎の出来事へと巻き込まれていきます。
特異なのは、謎を追う者たちの性格です。蒼司と彼の周囲にいる若者たちは全員が探偵小説の熱心な読者で、推理小説について語ることを愛しています。彼らは現実の事件を前にしながら、「この状況は古典本格でいえばどのパターンか」「アリバイ崩しか密室か動機推理か」「クリスティならどう書くはずか」と議論を重ねていく。つまり本作は、探偵小説というジャンルそのものを登場人物たちが批評・分析しながら進行する、メタ的な構造を持った長編です。
著者の中井英夫(1922〜1993)は、戦後に日本短歌社で短歌雑誌『短歌研究』『日本短歌』の編集長を務め、塚本邦雄・寺山修司・葛原妙子・中城ふみ子らを世に送り出した編集者でした。本作の構想は1955年に始まり、最初は同人誌『アドニス』に碧川潭の名で連載されたものの未完に終わったとされます。その後、半分まで書き上げた段階で1962年の第8回江戸川乱歩賞に塔晶夫名義で応募して次席に入選、完成稿が1964年に塔晶夫名義のまま講談社より単行本として刊行されました。現行では講談社文庫新装版(2004年)と創元ライブラリ版(2002年)が入手しやすい形です。
メタ的な手法の先行者としてはクリスティの『アクロイド殺し』(1926年)を、後の例としてホロヴィッツの『カササギ殺人事件』(2016年)を挙げることができるでしょう。ただし中井英夫の場合、メタ性は作中作や語り手の操作という形ではなく、登場人物たちの台詞のなかで展開していきます。彼らはミステリを語りながらミステリの中にいる——このねじれこそ本作の独特の味わいの源で、本格ミステリの「お約束」を知っている読者ほど深く沈み込める仕組みになっています。
三大奇書の中で本作が現代の読者に最も勧めやすい一冊とされるのは、叙述の難解さが他の二作より低く、かつ構造の面白さが即座に理解できる形で提示されているからでしょう。登場人物たちの推理談義は単独でも読み応えがあり、古典本格をある程度読んできた人なら「あのパターン」「この作法」という参照先を次々確認しながら読み進められます。物語の舞台となる戦後直後の東京の空気、薔薇や宝石といった象徴を散りばめた耽美な質感、そして長大な一作のなかに編み込まれた歴史への眼差し——どれを取っても、ミステリの枠を超えた読書体験が用意されています。
ミステリというジャンルの「外側」から作品を見ることへの関心がある読者に、特にお薦めしたい一冊です。講談社文庫新装版(上下巻、2004年)または創元ライブラリ版(2002年)でどうぞ。