本格ミステリとしての読みどころ
横溝正史は生前、複数のインタビューや著作で『悪魔の手毬唄』を「自分の最高作」あるいは「最もよく書けた作品」と繰り返し語っていました。1957〜1959年に雑誌『宝石』に連載されたこの長編は、『獄門島』と並んで「横溝の見立て本格の頂点」として東西ミステリーベスト100国内編の常連に挙げられる作品です。
岡山と兵庫の県境にある山村・鬼首村(おにこべむら)。金田一耕助がこの村を訪れたのは、20年前に消えた旅芸人の謎を追ってのことでした。村には土地に伝わる手毬唄があり——その歌詞の情景に見立てて、村の若い娘たちが次々に殺されていく。金田一は現代の連続殺人と過去の失踪という二つの謎を同時に追っていきます。
『獄門島』が芭蕉の俳句を用いたのに対し、本作は農村社会に根ざした民謡・手毬唄を見立てのモチーフに採用しました。この選択は重要です。手毬唄は農村の少女たちが遊びながら口にする歌であり、それが殺人の「予告」として機能するとき、農村共同体の閉鎖性と伝統への束縛が直接に暴力と結びつく。クリスティが『そして誰もいなくなった』(1939年)で童謡と殺人を結びつけた系譜を、横溝は日本の農村文化という素材で再構成しました。
本作の構造的な特徴は「過去と現在の平行」にあります。20年前に何があったのか——旅芸人の消え方、村の人間関係、当時の因縁——これらが現代の殺人の論理と噛み合っていく。動機の根が過去にあり、犯行は現在に起きるという構造は、一族の歴史を解読することが謎を解くことと同じ意味を持つ横溝本格の典型です。
横溝自身が「最高傑作」と評した理由のひとつは、手毬唄という素材と農村の閉鎖性が有機的に融合し、見立てが単なる演出ではなく物語全体の意味と結びついている点でしょう。農村共同体の因習と秘密を背景に置いたとき、「なぜ手毬唄でなければならなかったか」という問いに説得力のある答えが用意されています。
市川崑監督・石坂浩二主演の映画(1977年)をはじめ、テレビドラマ化も多数あります。映像より先に原作で読んでほしい一冊です。角川文庫(1971年文庫化)。
(出典: Wikipedia「悪魔の手毬唄」/ 横溝正史 自著後記 / 東西ミステリーベスト100)