本格ミステリとしての読みどころ
誘拐ものというジャンルでは、通常は犯人側が計画を主導し、攫われた側は身を縮めて時を待ちます。天藤真『大誘拐』はその力学を丸ごと引っ繰り返してみせた長編です。1978年に書き下ろされ、翌年の第32回日本推理作家協会賞を受賞。後年には週刊文春「東西ミステリーベスト100」の20世紀国内部門で第1位に選ばれており、戦後日本の本格ミステリを語るうえで欠かせない一作になっています。
著者の天藤真(1915-1983)は遅咲きの作家として知られます。サラリーマン生活や農業を経てから本格的に推理小説を書き始め、独特の人物造形と軽妙な語り口で熱心な読者を獲得していきました。本作はキャリア後期の代表作で、生前最後の長編期にあたります。早世のため寡作にとどまった作家ですが、創元推理文庫の天藤真推理小説全集(全9巻)が編まれ、本作はその最終第9巻に収められています。
物語の幕開けは紀州の山中。刑務所の雑居房で知り合った戸並健次・秋葉正義・三宅平太の三人は、出所と同時に営利誘拐の下調べに取りかかります。狙うは紀州随一の大富豪、柳川家の当主とし子刀自。「数千万なら取れる」と踏んだ犯人たちは、計画通り老婦人を山奥に連れ去ることに成功します。ところが攫われたはずの刀自は少しも怯えず、それどころか「自分の命の値段がそんな端金で済むはずがない」と犯人たちを叱りつけ、身代金の額を百億円へと吊り上げてしまうのです。一方、通報を受けた和歌山県警本部長・井狩大五郎は前代未聞の身代金額に直面し、独自の指揮系統で捜査陣を動かしていく——立場逆転の二重の頭脳戦が、ここから幕を開けます。
逆転の構図は痛快なコメディを生むと同時に、本格ミステリとしての骨格をも支えています。なぜ刀自はこれほど動じないのか、なぜ百億円という額でなければならないのか、犯人たちはどうやって受け取りを成立させるのか——個々の謎が捜査側・犯人側・刀自側の三つ巴の動きと噛み合い、読み進めるほどに伏線が回収されていきます。誘拐小説の枠の中で、ロジックの組み立てとユーモアの両立をここまで高い純度でやってのけた作例は、戦後日本でも稀でしょう。
舞台になっている紀伊半島の山林・里・寺社の地理感覚も読みどころのひとつです。捜査陣の動きと犯人側の脱出経路が地図上で噛み合っていく感覚は、トラベルミステリとは別種の地縁的な厚みがあります。登場人物は刀自と犯人三人組はもちろん、井狩本部長以下の県警側、刀自を慕う柳川家の人々まで一人一人が立っていて、読了後に「あの人はその後どうしたのだろう」と思わせる温度があります。
入手は創元推理文庫で容易です。1991年には岡本喜八監督・北林谷栄主演で映画化され、こちらも長く愛されている一本。痛快な逆転劇を楽しみたい人、本格ミステリのロジックと人物の魅力が両立した戦後の名作を探している人に、まず手にとってほしい古典です。