本格ミステリとしての読みどころ
戦後日本の本格ミステリの系譜を最初から辿ろうとすると、必ず早い段階で行き当たる一冊。1957年、第3回江戸川乱歩賞を受賞してデビューした仁木悦子の長編で、明朗で爽やかな作風から「日本のクリスティー」とも呼ばれた作家の出発点にあたります。
著者の仁木悦子(1928-1986)は、幼少期に胸椎カリエスを発病して歩行が不自由になり、長い療養生活のなかで読み書きを身につけ、戦後しばらくは童話・児童文学の書き手として活動していたという経歴の持ち主です。本作で乱歩賞を射止めて推理作家へと軸足を移し、その後の創作活動の中で「赤い猫」(1981年、日本推理作家協会賞短編部門受賞)など短編の名手としても評価を確立していきました。本作はその出発点になります。
刊行までの経緯にも独特の事情があります。もともと本作は、河出書房新社が『探偵小説名作全集』の別巻として企画した推理小説コンクールに投じられた原稿でした。ところが河出書房の経営が行き詰まり、企画そのものが宙に浮いてしまう。そこを江戸川乱歩が引き取って、ちょうど公募制に切り替わったばかりの第3回江戸川乱歩賞に推す形で世に出した、というのが本作のデビュー前史です。第1回・第2回の乱歩賞が評論・研究への授賞だったこともあり、小説で乱歩賞を受けたのは本作が初めて。賞の歴史としても節目に位置します。受賞後は単行本として大きく売れ、国産ミステリ初のベストセラーとも言われる存在になりました。
物語の舞台は東京の住宅街にある箱崎医院。植物学を専攻する大学生・仁木雄太郎と、音楽大学に通う妹・悦子は、この医院の一室に下宿することになります。作者と同名のヒロインを置く設定からして、どこか軽やかな空気が立ち上がってきます。やがて医院の中で奇妙な出来事が続発し、入院患者や家族の様子に不穏な気配が漂い始めて——というあたりまでが、ネタバレなしに語れる入り口です。タイトルにある「猫」がどう事件と関わるのかは、ページをめくる楽しみとして残しておきたいところ。
読みどころは、堅実なフーダニットの骨格と、兄妹の会話のリズムが両立している点です。論理を担う兄・雄太郎と、直感とフットワークの鋭い妹・悦子。ホームズとワトスンを兄妹に置き換えたような役割分担ですが、家族ならではの遠慮のなさが軽妙な掛け合いを生み、ともすれば陰惨になりがちな殺人事件の物語にすっと風を通していきます。1957年といえば、日本の推理小説が社会派へと舵を切り始める時期。そのなかで英国黄金期の流儀を引き継ぐ「健全な本格」を曇りなく書き切ったことは、後の新本格までを含めて長く影響を残しました。
入手は講談社文庫の新装版が手頃です。江戸川乱歩賞全集に併録された版もあり、戦後本格を体系的に追いたい読者には心強い環境が整っています。日本のクリスティーと呼ばれた作家の出発点に触れてみたい人、戦後ミステリ史を最初から辿りたい人へ、最初の一冊として薦めたい古典です。