本格ミステリとしての読みどころ
本書はシャーロック・ホームズ短編集の最終第5集です。原題は『The Case-Book of Sherlock Holmes』、〈ストランド・マガジン〉に1921年10月号から1927年4月号にかけて掲載された12編をまとめ、1927年6月に英国 John Murray 社、米国 George H. Doran 社から刊行されました。『緋色の研究』(1887)から数えて40年ぶん書き継がれてきたホームズ正典(カノン)の終着点で、ドイルが書いた最後のホームズ作品集です(ドイルは1930年に逝去)。
著者のアーサー・コナン・ドイルは1859年エディンバラ生まれの医師作家。エディンバラ大学医学部時代にジョセフ・ベル教授に師事し、その鋭い観察と推論術がホームズ造形のひとつの土台になりました。本書のドイルは60代から70歳近くまでの円熟期にあり、過去40年に及ぶシリーズの空気を抱えながら短編を書き継いでいます。
収録作は刊行順に「マザリンの宝石」「ソア橋」「這う男」「サセックスの吸血鬼」「三人ガリデブ」「高名の依頼人」「三破風館」「白面の兵士」「ライオンのたてがみ」「隠居絵具屋」「覆面の下宿人」「ショスコム荘」の12編。本書ならではの特色は、語り手の構成にあります。多くの短編はワトスンの一人称で語られますが、本書には三人称で語られる「マザリンの宝石」と、ホームズ本人の一人称で語られる「白面の兵士」「ライオンのたてがみ」が含まれており、これはシリーズ全編を通じてもごくわずかな実験的な構成です。
読みどころのひとつは、後年のミステリ評論で繰り返し言及される「ソア橋」(原題 The Problem of Thor Bridge)。屋外で起きたある不可解な事件をめぐる本格短編で、シリーズ後期の代表作とされてきました。「サセックスの吸血鬼」は、タイトルから想像される怪奇現象を本格の作法で扱う一編で、『バスカヴィル家の犬』と同じ「怪奇と論理」の系譜に位置します。「ライオンのたてがみ」は、ホームズが田舎で養蜂生活に入った晩年の事件で、引退後のホームズの日常がうかがえるファンには特別な一編。「三人ガリデブ」は、ホームズとワトスンの関係そのものに踏み込んだ筆致で、シリーズファンに特に愛されています。
文体は初期短編集の軽快さに比べると渋く落ち着いた手触りで、ホームズも引退に近づいた人物として描かれています。シリーズ40年で時間を共有してきた読者にとっては、まさに「最後のページをゆっくり閉じる」読書体験になるはずです。
入手は容易で、創元推理文庫(深町眞理子訳)、光文社文庫(日暮雅通訳)、新潮文庫(延原謙訳)、角川文庫(駒月雅子訳)などが現役、電子書籍版も揃っています。創元推理文庫の新版・光文社文庫の新訳はいずれも現代の読者に親しみやすく整えられており、初読でも安心。
短編集を順番に読んでこられた方、ホームズの一人称という珍しい語り口に触れてみたい方、ドイル晩年の渋い筆致を味わいたい方、シリーズの閉じ方を見届けたい方——『冒険』『思い出』『帰還』『最後の挨拶』に続いて、最後の一冊として読みたい短編集です。