ミステリーとしての読みどころ
ポアロシリーズの幕引き、として読み始めると、おそらく途中で本を持つ手が震えます。舞台は『スタイルズ荘の怪事件』と同じスタイルズ・コート。語り手はもちろんヘイスティングス。原点に戻ってきた、というだけで胸に来るものがありますが、本作の真の凄みはそこから先にあります。
ポアロはヘイスティングスに告げます。過去に起きた五件の事件、その全てに関わっていた人物「X」が、いまこの屋敷に滞在している、と。Xを名指しすることはできない。なぜならXは、自らの手では一度も殺していないから――。この前提が提示された瞬間、本作は通常の謎解き小説の枠を踏み越えていきます。「誰が犯人か」ではなく「Xとはいかなる存在か」を巡る、極めて特異な構造の一篇です。
クリスティーが本作を書き上げたのは1940年代、戦時下のロンドン。空襲で原稿が失われることを恐れ、また自身に万一のことがあってもポアロにふさわしい結末を残したいという願いから、彼女はこの原稿を銀行の金庫に三十年以上眠らせ続けました。1975年、自らの死の前年にようやく解禁。1975年8月にはニューヨーク・タイムズが一面でポアロの死亡記事を掲載するという、フィクションの登場人物としては異例の出来事まで起こりました。三十年越しに作家が解き放った時限装置――それが本作です。
ヘイスティングスの語りは、いつもの少しズレた善人のままです。だからこそ読者は彼と一緒に、何かがおかしい、何かが見落とされている、という焦燥感を共有しながらページを繰ることになります。本格ミステリの大原則に挑む大胆不敵な仕掛けが、シリーズ最終巻という器に注ぎ込まれている。クリスティーの長いキャリアの全てが、この一冊の最後の一行に収束していく感覚は、シリーズを通読した読者にこそ最大の衝撃をもたらします。
未読のまま積んでいる方は、できれば『スタイルズ荘の怪事件』『アクロイド殺し』『オリエント急行の殺人』あたりを経由してから手に取ってください。順序を守った人間にだけ届く一冊です。読み終えた後しばらく、何も手につかなくなる覚悟だけはしておいてください。訳は中村能三版・田口俊樹版いずれも入手しやすく、好みで選べます。