ミステリーとしての読みどころ
ドロシー・L・セイヤーズが1933年に発表した、貴族探偵ピーター・ウィムジィ卿シリーズの長編です。版元によって第8長編とも第10作とも数えられる中期の一冊で、シリーズの中では舞台設定の妙でひときわ記憶に残る作品として愛されています。
物語の幕が開くのは、ロンドンの広告代理店ピム社 (Pym's Publicity)。若手コピーライターのヴィクター・ディーンが社内の鉄製螺旋階段から転落して命を落とすところから始まります。事故か、それとも――社主ピム氏は、亡くなった部下が「社内で何か良からぬことが起きている」と告発しかけていたことに不安を募らせ、ウィムジィ卿に内密の調査を依頼します。卿はそこで「デス・ブリードン」と名乗り、ディーンの後任コピーライターとして潜入する、というのが導入部です。
特筆すべきは、セイヤーズ自身が1922年から約9年にわたり、ロンドンの大手広告代理店S・H・ベンソン社でコピーライターとして勤務していたという経歴です。本作の広告業界描写は、社内のヒエラルキー、コピー会議の空気、コーヒーを片手に飛び交う冗談、納期に追われる現場のざわめきまで、内側を知る人間にしか書けない手触りで満ちています。「お仕事小説」としての完成度の高さは、本作が長く読み継がれてきた大きな理由のひとつでしょう。
本格ミステリとしての骨格はもちろんしっかりしていますが、それと同じくらい、貴族でありながら平のコピーライターを演じる卿のユーモラスな立ち回りが楽しい一作でもあります。階級社会のなかで一段下のオフィスワーカーになりすますという設定そのものが、英国黄金期ならではのコメディと風俗観察を生み出していて、笑いと不穏さが交互に訪れる独特のリズムを作っています。
1930年代英国社会の影もまた濃く落ちています。当時のロンドンに広がっていた退廃的な「Bright Young Things」的世界、消費文化と広告産業の急成長、そしてその裏で進行していた都市の暗部――それらが事件の輪郭にじんわりと滲み出してくる構成は、単なる謎解き以上の読み応えを生んでいます。社会風俗を描く眼差しの冴えは、セイヤーズの本領のひとつです。
ウィムジィ卿シリーズの読者にとっては、シリーズ中でも比較的「卿が主役らしい主役」として動き続ける一冊で、初めて触れる読者にとっても、潜入捜査というシンプルな構図ゆえに入口として親しみやすい作品です。邦訳は浅羽莢子訳で、創元推理文庫から手に入ります。
黄金期英国ミステリの中でも、密室や時刻表トリックといった「いかにも」な意匠ではなく、舞台と人物造形の厚みで読ませる方向の一冊。広告業界というフィールドが好きな方、英国階級社会の手触りごと味わいたい方に、特に薦めたい潜入長編です。