本格ミステリとしての読みどころ
クリスティの本格ミステリの中で、本作はちょっと変わった始まり方をします。原書は 1937 年に英国コリンズ・クライム・クラブから刊行されました(米国題は『Poirot Loses a Client』)。事件はすでに「過去のもの」として物語の前にあり、ポアロのもとに遅れて届いた一通の手紙から物語が動き出す、という変則構造の長編です。
著者はアガサ・クリスティー。語り手はおなじみのアーサー・ヘイスティングス大尉。本書はヘイスティングスがポアロもの長編の語り手を務める作品としては、後年の『カーテン』(1975)を除けば最後の一冊にあたります。
物語の鍵を握るのが、屋敷で飼われているワイヤヘアード・テリアの犬ボブです。タイトル「もの言えぬ証人(Dumb Witness)」の正体はこのボブで、彼が階段でボール遊びをした出来事が、事件の発端を語るうえで重要な意味を持っています。クリスティ自身も大の犬好きで、本書の献辞はクリスティ家のワイヤヘアード・テリア「ピーター」(原文「a dog in a thousand」)に捧げられています。ボブの描写にはその愛情がしっかり通っています。
物語は、英国の田舎町に住む独居の老婦人エミリー・アランデルから、ポアロのもとに送られた一通の手紙から始まります。手紙は書かれてから時間が経ったうえでようやく届いたもので、ポアロはその経緯に強い疑問を抱きます。ヘイスティングスを伴って現地を訪ねたポアロは、エミリーの親族や使用人、近所の人々を順に訪ねながら、屋敷で何が起きていたのかを少しずつ組み立てていくことになります。
本作の読みどころは、この「過去をたぐる」ような捜査スタイルです。事件発生の瞬間にポアロが居合わせるわけでも、潤沢な物的証拠が残っているわけでもない。ポアロが頼れるのは、関係者たちのまだら模様の記憶と、屋敷で生き残っている者たち——そして、犬のボブです。後年の『五匹の子豚』(1942)へとつながる「過去事件再構築」型の手触りを、より軽やかに楽しめる一冊です。
加えて、犬好きの読者にとっては、ボブとポアロのやりとりがちょっとした見どころになっています。クリスティの本格ミステリには、屋敷ものの落ち着いた雰囲気を持つ作品が多くありますが、本作はその中でも犬の存在ゆえの独特の温かみがあって、シリーズ内でも独特の温度を持つ作品として親しまれています。
日本では早川書房クリスティー文庫(加島祥造訳)で容易に入手でき、Kindle 版や Audible 版もあります。過去をたぐるタイプの本格に惹かれる方、英国田園地方の屋敷ものが好きな方、犬とポアロという組み合わせに興味を覚える方に、ゆっくり手に取っていただきたい一冊です。