本格ミステリとしての読みどころ
本書はシャーロック・ホームズ短編集の第4集です。原題は『His Last Bow: Some Reminiscences of Sherlock Holmes』(米版副題は「Some Later Reminiscences of Sherlock Holmes」)。〈ストランド・マガジン〉などに1908年以降に発表された短編8編をまとめ、1917年10月に英国 John Murray 社、米国 George H. Doran 社から刊行されました。
著者のアーサー・コナン・ドイルは1859年エディンバラ生まれの医師作家。エディンバラ大学医学部で学び、外科医ジョセフ・ベル教授の観察と推論術が、ホームズという人物像のひとつのモデルになりました。1893年の「最後の事件」でホームズを「ライヘンバッハの滝」に消した後、長編『バスカヴィル家の犬』(1901-02)、短編集『シャーロック・ホームズの帰還』(1905)を経て、ホームズは断続的に書き継がれます。本書はその後の10年近くにわたって書かれた短編を一冊にまとめた、いわば「後期ホームズ集」です。
収録作は刊行版の構成で「ウィステリア荘」「ボール箱」「赤い輪」「ブルース=パーティントン設計書」「瀕死の探偵」「フランシス・カーファクス姫の失踪」「悪魔の足」、そして表題作「最後の挨拶——シャーロック・ホームズの戦時奉公」の8編。「ボール箱」はもともと『回想』時代の短編ですが、英国版の『回想』からは外されており、本書に収め直されたという書誌的な経緯があります(米国版『回想』には収録)。
読みどころのひとつは、シリーズ屈指の本格短編「ブルース=パーティントン設計書」。英国海軍の機密文書をめぐる事件にホームズの兄マイクロフトが本格的に関わってくる、後のスパイ小説・諜報サスペンスにも遠く影響を残した一編です。「ウィステリア荘」は二部構成で、田舎の屋敷の不審な失踪事件と、その背後にある国際政治の影を扱う骨太の本格。「悪魔の足」は南西イングランドの孤立した家を舞台にした、薬物・植物毒の知識が鍵になる一編で、本格短編の中でも独特の手触りを持っています。
そして表題作「最後の挨拶」は、1914年8月、第一次世界大戦勃発直前の英国を舞台にした異色の一編です。引退して田舎で養蜂生活を送っていたホームズが、英国の利益のためにドイツのスパイ網に対峙する——という、本格ミステリとスパイ小説の境界に位置する物語。「最後の挨拶」というタイトルが示すように、ドイル自身も執筆当時はシリーズの幕引きを意識していたとされ、本作初出時点では本当にこれが最後の一編になるはずでした(後に『事件簿』が書かれます)。
本書全体を通じて目を引くのは、執筆時期が10年に及ぶことから来る題材の幅です。前2作(『冒険』『思い出』)に比べると統一感はやや薄れる一方、地下鉄や戦時下の諜報など「20世紀のホームズ」と呼べる要素が顔を出してきて、シリーズが時代と並走している感触が味わえます。
入手は容易で、創元推理文庫(深町眞理子訳)、光文社文庫(日暮雅通訳)、新潮文庫(延原謙訳)、角川文庫(駒月雅子訳)などが現役、電子書籍版も揃っています。短編集を順番に追っている方は、本書のあとに最終短編集『シャーロック・ホームズの事件簿』へ進む流れが自然です。
ホームズ後期の円熟と20世紀との接続点を味わいたい方、「ブルース=パーティントン設計書」のようなスパイ寄り本格に興味がある方、シリーズを最後まで見届けたい方には、第3集『帰還』のあとに続けて読みたい一冊です。