本格ミステリとしての読みどころ
1984年の夏、アイルランドの田舎町ノックナリー近郊の森で、3人の子どもが姿を消します。捜索隊がようやく見つけたのはただ一人。樫の木にしがみつくように立ち尽くす少年で、靴と靴下が血で濡れていたにもかかわらず、彼自身には傷ひとつなく、森で何があったのかをすべて忘れていた——タナ・フレンチが2007年に発表したデビュー作『悪意の森』は、こんな冒頭から物語が動き出します。
著者のタナ・フレンチはアメリカ生まれ、イタリア・マラウイ・アメリカ・アイルランドで育った作家・舞台俳優。本作で小説家としてデビューしました。原書 In the Woods は刊行と同時に英語圏の新人賞を席巻し、2008年にエドガー賞最優秀新人賞・アンソニー賞最優秀新人賞・マカヴィティ賞最優秀新人ミステリ・バリー賞最優秀新人賞という4賞を獲得。1冊のデビュー作がこれだけの新人賞を独占した例は近年でも希で、英語圏での累計100万部突破(2015年時点)とあわせて、フレンチを一気に第一線へ押し上げました。
本作はその後「ダブリン殺人課(Dublin Murder Squad)」シリーズへと展開していきます。シリーズは前作の脇役が次の主人公になる「主役交代制」を取り、第2作『道化の館』(原題 The Likeness, 2008)はパートナーのキャシー・マドックスが、第3作『葬送の庭』(原題 Faithful Place, 2010)以降もそれぞれ別の刑事が中心となる構成。邦訳は集英社から3作目までが出ており、いずれも安藤由紀子訳です。2019年にはBBC・RTÉの共同制作で『ダブリン殺人課』として連続ドラマ化もされ、タナ・フレンチの名前を一段と広い層に届けました。
物語は20年後のダブリン。記憶を失ったあの少年は、名前をロブ・ライアンと変えてダブリン警察の殺人課刑事となり、相棒の女性刑事キャシー・マドックスとコンビを組んでいます。ある日、二人が任されたのは——よりによって、あのノックナリーの森のすぐそばで起きた12歳の少女殺害事件でした。発掘調査が進む古代遺跡、地元の道路建設をめぐる住民対立、そして20年前の事件を覚えているはずの大人たちと再会していく捜査。ロブはかつて自分が被害者であったことを上司にもキャシー以外の誰にも告げないまま、現在の少女殺害事件と、自分のなかに封じ込めた森の記憶の両方に向き合うことになります。
本作の独特な手触りは、警察小説の骨格に「記憶と喪失の文学」を編み込んだ点にあります。アイルランドの森が抱える土俗的な不気味さ、ロブの一人称がたたえる静かな抒情、捜査の進行と並行して揺らぎ始める彼自身の判断力——P・D・ジェイムズ以降の英国心理派の系譜にありながら、アイルランドの風土に根を張った独自の暗さがあり、警察手続きの細部もリアル。古典本格のように「すべての謎が一直線に解かれる」読後感とは少し違う場所に着地する物語ですが、そのずれかたこそが、本作以降の英語圏ミステリの方向性を決めたと言われる所以です。
集英社文庫の上下分冊・上巻にあたります。続巻と一緒に手に入れて、ノックナリーの森に踏み込んでください。シリーズに入るというよりは、ここから始まる「ダブリン殺人課」という大きな地図の入口に立つ感覚に近い一冊です。文学寄りの警察小説、英語圏現代ミステリの最良の入口を探している方に強くお薦めします。