本格ミステリとしての読みどころ
クリスティの作品の中で、本作は彼女自身の人生と特に深く結びついた一冊です。原書は 1936 年にコリンズ・クライム・クラブから刊行されました。クリスティは 1930 年に考古学者マックス・マローワン(後にサー)と再婚しており、夫の中東での発掘調査に同行する暮らしを続けていました。本作の舞台描写には、その期間に彼女が見聞きした発掘現場の空気が色濃く反映されています。
著者はアガサ・クリスティー。原題は『Murder in Mesopotamia』。物語の舞台はイラク北部のハッサニエ近郊、考古学者レイドナー博士が率いる発掘隊の発掘ハウスです。隊長レイドナー博士、その夫人ルイーズ、複数の考古学者や助手たち、そして雇われたばかりの英国人看護師エイミー・レザラン——砂漠の中の発掘地という、閉鎖的な共同生活の場が物語の枠組みになります。
語り手はそのエイミー・レザラン。発掘隊の隊長レイドナー博士から「夫人の様子がここのところ落ち着かないので付き添ってほしい」と依頼されたところから物語は動き出します。看護師という職業人の視点を通して、発掘現場の人間関係や、ルイーズという女性をめぐる微妙な空気が読者に伝わってくる構成です。
やがて発掘ハウスで事件が起き、たまたま近くを旅していたポアロが現地に呼ばれて捜査に当たることになります。閉ざされた発掘地という限られた空間、限られた人数の容疑者という、本格ミステリとしての枠組みが整えられたうえで、ポアロが心理面と物理面の両方から事件を読み解いていきます。
本作のいちばんの魅力は、何よりもその舞台です。砂漠の中の発掘ハウス、土器の破片に囲まれた仕事場、考古学者たちのささやかなやりとり——黄金期英国本格の典型的な舞台(田舎村・客船・列車)とは異なる、独特の異国情緒が物語を包んでいます。クリスティ自身が現地で過ごした日々から汲み上げた細部は、観光客の視点ではなく生活者の視点で描かれており、その説得力こそが本作を他のポアロ長編から際立たせているとも言えます。なお、ルイーズ・レイドナーの人物造形には、考古学者サー・レナード・ウーリーの夫人キャサリン・ウーリーがモデルになったとも伝えられます。
ポアロシリーズ第 14 長編にあたる本作は、クリスティの「考古学への関心」が長編に直接持ち込まれた最初の例として位置づけられることが多い一冊でもあります。
日本では早川書房クリスティー文庫の石田善彦訳で容易に入手でき、Kindle 版も用意されています。異国情緒の本格を試したい方、考古学・砂漠・発掘という黄金期英国本格としては珍しい舞台に惹かれる方、看護師の一人称という視点に興味がある方に。シリーズの中でも独特の風通しを持つ一冊です。