本格ミステリとしての読みどころ
エルキュール・ポアロが世界の本格ミステリ史に最初に姿を現したのが、本書『スタイルズ荘の怪事件』です。アガサ・クリスティーのデビュー長編であると同時に、ポアロシリーズの第一作にあたります。
著者は1890年に英国デヴォン州トーキーで生まれたアガサ・クリスティー。本作の執筆は第一次世界大戦中、1916年ごろに進められました。当時クリスティはトーキーの病院薬局でボランティアの薬剤師として働いており、その仕事で身につけた薬学の知識が本作の毒殺事件の組み立てに反映されています。執筆そのもののきっかけは、姉マッジから「あなたに探偵小説は書けないでしょう」と挑発されたことだった、というエピソードもよく語られるところです。
刊行までの道のりは平坦ではなく、原稿は複数の出版社で見送られた末、米国の John Lane 社が1920年10月にまず刊行、英国版は系列の The Bodley Head から1921年1月に刊行されました。その後、本書から始まったポアロ長編は、最終作『カーテン』までで30作以上を数える大シリーズに成長していきます。本格ミステリ黄金期(1920〜1940年代)の幕開けに立つ、文字通り出発点の一冊です。
物語の舞台は第一次世界大戦下の英国カントリーハウス、スタイルズ荘。戦傷で除隊された語り手アーサー・ヘイスティングス大尉が、旧友キャヴェンディッシュ家に招かれて療養している、というところから話は始まります。屋敷の女主人エミリーは資産家で、最近若い男と再婚したばかり。家族や使用人それぞれの思惑が水面下で絡み合うなか、ある夜、屋敷で事件が起きます。たまたま近くの村に難民として暮らしていた元ベルギー警察の名探偵ポアロが捜査に乗り出す——というのが導入部です。
読みどころは、デビュー作にしてすでにポアロ像と語り口の骨格が出来上がっている点です。「整然と秩序を愛するベルギー人」「灰色の脳細胞」というキャラクター記号、ヘイスティングスを聞き手に置いたホームズ&ワトスン型のコンビ、英国カントリーハウスを舞台にしたフェアプレイ本格——以後の長編で繰り返し磨かれていく要素の多くが、すでに本書で姿を現しています。同時に、円熟期の作品に比べると語り口にはまだ初々しさもあり、シリーズが「ここから始まる」感触をはっきり味わえます。
入手は早川書房クリスティー文庫の矢沢聖子訳が現行流通しており、紙書籍・電子書籍ともに容易です(原書は著作権が切れており、Project Gutenberg などで英文が読めることでも知られています)。ポアロを順番に読み進めたい方、英国黄金期本格の出発点に立ち会いたい方に、まず一冊として薦めやすい古典です。