本格ミステリとしての読みどころ
クリスティのキャリアの中で、本作にはやや特別な位置づけがあります。前年の『アクロイド殺し』(1926)で世界的な評価を得た直後、母の死と最初の夫アーチーとの関係破綻という大きな個人的試練に見舞われた時期に、契約を抱えながら書き継がれた一冊——という背景を持つ長編だからです。クリスティ自身、自伝の中で本作について「いつも嫌いだった」と率直に振り返っています。
著者は1890年生まれの英国作家アガサ・クリスティー。本作はポアロシリーズの長編第6作にあたり、英国では1928年3月29日に William Collins & Sons から、米国では同年 Dodd, Mead 社から刊行されました。プロットの土台は1923年の短編「プリマス行き急行列車」で、本作はそれを長編向けに膨らませたものです。執筆の一部はカナリア諸島で進められたと伝えられています。
物語の舞台は、英仏を結び南仏リヴィエラ海岸へ向かう豪華寝台列車「ル・トラン・ブルー(青列車)」。米国の富豪を父に持つルース・ケタリングが、列車内で殺害されているのが発見され、彼女が運んでいた高名な宝石も行方が分からなくなります。同じ列車に乗り合わせていたポアロが事件の捜査に乗り出していく——という、後の『オリエント急行の殺人』(1934)につながる「列車ミステリ」の系譜上に置ける一冊です。
読みどころは二つあります。ひとつは、欧州大陸の華やかな舞台立て——ニースの社交、リヴィエラの別荘、英国の引退貴族、米国の新興富裕層——を、クリスティがどのように本格ミステリの装置として組み込んでいるかを観察できる点。後年の代表作群につながる「異国情緒+寝台車+上流階級」の三点セットを、彼女がこの時期に試している姿が見えます。
もうひとつは、本作がヘイスティングス不在の長編であることです。物語は、田舎に暮らす英国人女性キャサリン・グレイが思いがけず資産を相続して列車に乗り合わせる、という側面からも語られます。ポアロの相棒役を変えた構成という意味でも、シリーズの中ではやや異色の味わいがあります。なお、ポアロの従者ジョージや情報屋ミスター・ゴビーといった脇役が初めて登場するのも本作です。
入手は早川書房クリスティー文庫の青木久恵訳が現行流通しており、紙書籍・電子書籍ともに容易です。クリスティの代表作群を追いかけたあと、彼女のキャリアの中での「過渡期」を体験したい方、ヘイスティングス抜きのポアロを見てみたい方、寝台列車を舞台にした黄金期作品が好きな方におすすめできる一冊です。