ミステリーとしての読みどころ
アガサ・クリスティーがマープルもの長編として最後に書き下ろした、晩年の到達点と呼ぶべき一冊です。1971年の発表当時、作者はすでに八十代。それでもなお、老婦人探偵に「ネメシス(復讐の女神)」と名乗らせ、過去に葬り去られた事件の真相を掘り起こさせる——その筆致には、長いキャリアの果てに辿り着いた静かな凄みがあります。
物語は、亡くなった大富豪ジェースン・ラフィール氏の弁護士からマープルに届く一通の手紙から始まります。ラフィール氏といえば、シリーズ読者には『カリブ海の秘密』でマープルとともに事件に立ち会った、あの辛辣で抜け目のない老人です。彼が遺言で老婦人に託したのは「ある事件の調査」——ただし、何の事件かも、どこで起きたのかも明かされない、奇妙きわまる依頼でした。手がかりとして用意されていたのは、イギリスの著名な邸宅と庭園を巡るバスツアーへの参加券一枚。マープルは何も知らされぬまま、十五人の見知らぬ同行者とともに旅立つことになります。
本作の魅力は、まずこの構造そのものにあります。「何を調べればよいのか」を探すところから始まる探偵小説、というのは大胆な企みで、マープルは観光地を巡りながら、同行者の言葉や態度、ふとした視線の動きから、自分が向き合うべき過去の輪郭を少しずつ手繰り寄せていく。村の噂話を糸口に真相に迫る、あの安楽椅子探偵的方法論が、見知らぬ土地の見知らぬ人々を相手に拡張されていく感触は、シリーズ通読者ほど深く味わえるはずです。
そしてもうひとつ、本作を晩年の傑作たらしめているのは、「正義」と「赦し」をめぐる主題の重みでしょう。ネメシスとは、ギリシア神話における応報の女神。穏やかな村の老婦人が、その名を引き受けて立ち上がる一場面の静かな迫力は、シリーズを長く読んできた者にとって忘れがたい印象を残します。本格パズラーとしての切れ味よりも、人間の罪深さと時間の残酷さを見据える眼差しの深さで読ませる作品で、解明場面の余韻もまた格別です。
『カリブ海の秘密』を先に読んでおくと、ラフィール氏という人物像、そして彼がなぜマープルにこの依頼を託したのかという背景が立体的に立ち上がります。順序としては、ぜひ前作とセットで手に取ってほしい一冊。クリスティー文庫(早川書房)の乾信一郎訳で長く読み継がれてきた、マープル長編の掉尾を飾る重要作です。