本格ミステリとしての読みどころ
「真相は一つ」という本格ミステリのお約束を、最も鮮やかな形で揺さぶった古典中の古典がこの一冊です。アントニイ・バークリーが 1929 年に発表した『毒入りチョコレート事件』、原題『The Poisoned Chocolates Case』。多重解決ミステリの代表作として、ジャンル史に名を刻む本格長編です。
著者はアントニイ・バークリー(1893-1971)。英国の推理作家で、ディテクション・クラブ創設者の一人として知られ、シェリンガム探偵もの、アンブローズ・チタウィックもの、フランシス・アイルズ名義の倒叙ものなど、本格のフォーマットを多角的に試みた作家です。本書はその中でも最も代表的な、シェリンガムを語り手の中心に据えた長編にあたります。
物語の発端は、ロンドンで起きた毒入りチョコレート事件。スコットランド・ヤードのモレスビー首席警部が、捜査に行き詰まった事件を素人探偵クラブ「クライムズ・サークル」に持ち込むところから動き出します。被害者はジョーン・ベンディックス。夫グレアム・ベンディックスが、知人のペンファーザー卿のもとにサンプルとして届いていた高級リキュール・チョコレートをひょんな経緯で譲り受け、それを自宅に持ち帰って妻と食べたところ、夫は一命を取り留め、妻は命を落とす——という奇妙な連鎖から始まる事件です。本来の宛先と被害者がずれているという構造そのものが、推理を厄介にしている。
ここから動き出すのが、作家ロジャー・シェリンガムを会長とする「クライムズ・サークル」の6人のメンバーです。シェリンガム、『試行錯誤』にも再登場するアンブローズ・チタウィックほか、職業も気質もばらばらな6人が一週間それぞれ独自に調査を進め、翌週、毎日一人ずつ自分の推理を例会で披露する——という構成。それぞれの推理は前の推理を否定し、別の犯人像と動機と方法を提示していきます。
ある推理者は犯人 A を綺麗に指し示し、次の推理者は「A はあり得ない」と論破して B を提示し、さらに次が両方を退けて C を……という具合に、6つの解が順繰りに並んでいきます。同じ手がかりから論理的に成立し得る解が、これだけ違う形で立ち上がる——その様子を見せること自体が本書の主題であり、見せ場でもある。フェアプレイ本格の前提(与えられた手がかりから真相が一意に導ける)に、内側から問いを立て直してしまう挑戦的な作品です。
なお本書には、バークリーの初期短編「偶然の審判(The Avenging Chance)」と共通する事件が登場しますが、英語版 Wikipedia によれば短編の解決は本書では複数ある仮説の一つとして提示されたうえで否定される、という関係になっています。短編との読み比べも本書の楽しみのひとつです。
文体はバークリーらしい皮肉と機知に富んだもの。サロン的な議論の場としての例会の空気感、6人それぞれの推理スタイルや人物像の描き分けも見どころで、論理ゲームとしての本格と、知的会話小説としての楽しさが両立しています。1929 年の作品ですが、推理のリズムは古びていません。
入手は創元推理文庫(高橋泰邦訳・新版)が手に取りやすい形です。Kindle 版もあり、Project Gutenberg では英語原文も公開されています。多重解決ミステリの源流に触れたい方、「真相は一つ」という本格の前提を揺さぶる作品に興味がある方、論理ゲームとしての黄金期本格をじっくり味わいたい方に勧めたい一冊。バークリーの『試行錯誤』と読み比べると、彼の本格に対する姿勢がより立体的に見えてきます。