本格ミステリとしての読みどころ
『緋色の研究』(1887)に続くホームズ長編第2作です。原題は『The Sign of the Four』(後年は『The Sign of Four』表記も多く使われます)。1890年2月号の英米誌〈リッピンコッツ・マンスリー・マガジン〉に「The Sign of the Four; or The Problem of the Sholtos」として発表されました。
著者のアーサー・コナン・ドイルは1859年エディンバラ生まれの医師作家。エディンバラ大学医学部で学んだ際の恩師ジョセフ・ベル教授の観察眼と推論術が、ホームズ造形の下敷きになったとされています。本書執筆の経緯は文学史でもよく知られていて、1889年8月30日にロンドンのラングハム・ホテルで開かれた米誌〈リッピンコッツ〉編集者ジョゼフ・M・ストッダートのディナーで原稿が依頼されました。同席者の中にはオスカー・ワイルドもおり、彼はそこから『ドリアン・グレイの肖像』を1890年7月号の〈リッピンコッツ〉に寄稿することになります。一夜のディナーから英米文学の二つの古典が生まれたという挿話です。
物語の発端はベイカー街221Bを訪ねてくる若い女性メアリ・モースタンの依頼です。彼女の父は数年前に英印軍からの帰国直後に消息を絶ち、その後、毎年匿名で大粒の真珠が彼女のもとに届くという不可解な状況が続いていた——という入り口から、英国植民地時代のインドで結ばれた「四人の署名」と一つの財宝、ロンドンの裏町、そしてテムズ川を巡る追跡へと、物語の縮尺がどんどん広がっていきます。
読みどころのひとつは、英国植民地時代のインドという異国の素材を、本格ミステリのフォーマットに引き寄せて消化している骨格の太さです。本書は『緋色の研究』と同じく、現在の事件編と過去の物語編を併走させる二部構成を取りますが、前作よりも両者の結びつきが緊密で、過去譚が現在の謎を解く血肉として機能しています。ドイルが長編第1作から第2作の間で構成術を磨いた跡が感じられます。
もうひとつの読みどころが、シリーズ全体に関わる転機としての意味。依頼人メアリ・モースタンとワトスンの関係は本書を起点に動き出し、以降の短編集でワトスンが「結婚した相棒」として描かれる根拠になります。ホームズと距離を置いて生活する時期があるという設定が生まれたことで、シリーズの語り口に余裕が生まれた、と評する研究者も少なくありません。
冒頭でホームズがコカインの注射に手を伸ばす場面を含め、本書はホームズの陰の側面も書き込まれており、後年の作品で繰り返し触れられる彼の「事件のない時期の倦怠」は、本書で印象深く描かれています。テムズ川を舞台にした終盤の追跡描写も、シリーズ屈指の冒険シーンとして読者の記憶に残るはず。
入手は容易で、創元推理文庫(深町眞理子訳)、光文社文庫(日暮雅通訳)、新潮文庫(延原謙訳)、角川文庫(駒月雅子訳)などが現役、電子書籍も揃っています。ホームズ長編4作を順番に読みたい方、英国植民地時代のロンドンとインドに広がる謎に興味がある方には、長編第1作と並んで早い段階で押さえたい一冊。読み終えたら、続いて短編集第1集『冒険』へ進むと、ホームズ短編黄金期の入口に立てます。