ミステリーとしての読みどころ
クリスティーが死の前年に世を去る覚悟で金庫に眠らせていた、ミス・マープル長編シリーズの正真正銘の最終作です。執筆自体は第二次大戦下の一九四〇年代、空襲で命を落とすかもしれぬ作家が娘や夫に「最後の贈り物」として書き残した二作のうちの片方――もう一方がポアロの『カーテン』――という来歴は、それだけで読む者の背筋を伸ばさせます。一九七六年、作者の死を見届けるかのように刊行された本書は、その年のベストセラーリストにも名を連ねました。
物語の主役はニュージーランドから英国に渡ってきた若妻グウェンダ・リードです。夫より先に新居を探しに来た彼女が、海辺の町で出会ったヴィクトリア朝の家。階段の数、壁紙の柄、庭の小道――初めて訪れたはずのその家の隅々を、なぜか彼女はあらかじめ知っているのです。やがてロンドンの劇場で観た芝居のとある台詞をきっかけに、忘れ去っていた幼い日の記憶が一気に噴き出します。「ヘレン」という名の女性、そして彼女が殺される光景。十八年前の沈黙していた殺人が、若妻のデジャヴから目を覚ましてしまう――そんな出だしです。
本書の妙味は、現場も物証もとうに失われた過去の事件を、人々の記憶と証言だけで再構成していくところにあります。クリスティーが前年に書いた『五匹の子豚』と通じる「回想の中の殺人」を、今度はマープルという最強の老婦人探偵に解かせた一作。ミス・マープルは「眠れる殺人を起こすな」と若い夫妻に何度も警告します。過去を掘り返すこと自体が、犯人を再び動かす引き金になりうるという警句が、物語全体に静かな緊張を漂わせ続けるのです。
ミス・マープルもの長編としては最後の事件にあたりますが、舞台設定は一九四〇年代であり、晩年の老衰したマープルではなく、まだ村の事情通として矍鑠と立ち回る彼女に再会できるのが嬉しいところです。グウェンダの夫ジャイルズの行動派ぶりと、マープルの慎重で内省的な観察眼とのコントラストも気持ちよく、若い世代の好奇心と老婦人の知恵が手を携えて真相に迫っていく構図には、シリーズ全体を締めくくるにふさわしい温かさがあります。
驚き型の本格として読むと、「現場が消えた状態でどう犯人を特定するか」という制約の中での消去法と心理推理が見事です。物理的な密室や派手な不可能興味に頼らず、関係者一人ひとりの語る記憶のズレから真相を浮かび上がらせていく手つきは、後年の心理ミステリやコールド・ケースものの先祖というべき完成度です。綾川梓氏による訳文も読みやすく、ハヤカワ・クリスティー文庫で気軽に手に取れます。マープル作品をひととおり追ってきた方の最後の一冊にも、初めての一冊にも自信をもっておすすめできる、静かで美しい幕引きの一作です。