本格ミステリとしての読みどころ
鮮烈なデビュー作の次に、何を書くか——ミステリ作家にとっていちばん難しい問いに、スチュアート・タートンが選んだ答えがこの一冊でした。前作『イヴリン嬢は七回殺される』(2018) で時間ループと館を組み合わせた特殊設定本格を成功させたタートンが、続く2020年に世に出したのが本作『名探偵と海の悪魔』。舞台はそこから完全に切り替わり、1634年、オランダ東インド会社の帆船が大海原を渡る8ヶ月の航海です。
タートンはイギリスの作家で、デビュー作のいきなりの大成功で「現代英国本格の新たな旗手」と目された一人です。前作は『コスタ賞最優秀新人賞』を受賞し、世界各国で翻訳された人気作。本作はその後継として書かれ、原書刊行後は英国推理作家協会(CWA)スチール・ダガー賞・英国歴史小説家協会ゴールド・クラウン賞それぞれの最終候補に名を連ね、邦訳版は2022年の『このミステリーがすごい!』海外編4位、『週刊文春ミステリーベスト10』『本格ミステリ・ベスト10』それぞれ6位、日本推理作家協会賞翻訳部門の候補入りという好評価を得ました。タートンは作品ごとに設定を一新するタイプの作家で、本作と前作のあいだに繰り返される世界はありません。第3作として近年は『The Last Murder at the End of the World』も発表しています。
物語は、世界一の探偵と謳われるサミュエル(サミー)・ピップスが、罪人として手枷をはめられたまま帆船ザーンダム号に乗り込む場面から始まります。バタヴィア(現ジャカルタ)からアムステルダムへ。彼を護送するのは長年の相棒で巨漢の傭兵アレント・ヘイズ。出港直前、埠頭に包帯まみれのライ病者が現れて「この船は呪われている、乗る者すべてが滅びる」と告げ、突然炎に包まれて死ぬ——という、いかにもゴシック小説の幕開けにふさわしい衝撃から船は出航します。航海が始まると帆には禍々しい印が浮かび、船内には「老いたトム」と名乗る声が響き、海には説明のつかない火が点る。閉ざされた木造の船という究極の閉鎖空間のなかで、誰が悪魔で誰が人間なのかが揺らぎはじめる。手枷を打たれたピップスに代わり、捜査の前面に立つのは護衛のアレントです。
読みどころは、なんといっても17世紀大航海時代の手触りです。タートンはVOC(オランダ東インド会社)の階級・船内秩序・植民地統治の暴力性・宗教と迷信の重なりを丹念に描き込み、その細部のひとつひとつが事件の論理に絡んでくる構造をとっています。歴史風俗を背景画として置くのではなく、当時の社会でなければ起こり得ない事件として組み立てる——この姿勢は、現代英国本格のなかでもタートンの突出した個性です。同時に、ピップスとアレントという「天才と巨漢」のバディが時折交わす軽口、女性たちの存在感、そして船そのものが一個の登場人物のように軋み続ける描写。古典的なホームズ&ワトソン構図に、海洋ホラーの空気が重ねられている。
訳は『イヴリン嬢〜』と同じく三角和代。500ページ超の大作ですが、章の切れ味と謎の追加ペースが巧みで、ページをめくる手が止まりません。前作を読んでいなくても入れる独立作なので、こちらから読み始めても構いません。「歴史小説と本格ミステリの両方をいっぺんに浴びたい」「閉鎖空間に超自然の脅威がにじむ謎を味わいたい」という気分の夜に、ぜひ手に取ってほしい一冊です。文藝春秋から単行本(2022年)、文春文庫が後に続いています。