本格ミステリとしての読みどころ
ロンドン発ボストン行きの便を待つ空港のラウンジ。ボストンの富豪起業家テッド・セヴァーソンが、隣の席に座った見知らぬ美しい女性リリー・キンターと、酒の勢いで互いの秘密を明かし合うゲームを始めます。やがてテッドはふと、妻ミランダが浮気をしている、あの女を殺したいと思う、と口に出してしまう。リリーは静かに答えます——「手伝いましょうか」。ここからピーター・スワンソンの長編サスペンス『そしてミランダを殺す』は動き始めます。
著者ピーター・スワンソンは米国マサチューセッツ州在住のアメリカ人作家で、本書は2015年に米国HarperCollins/英国Faber & Faber から同時刊行された出世作にあたります。デビュー作『時計仕掛けの恋人』に続く長編で、本書の成功以降スワンソンは英米のサスペンス界を代表する書き手のひとりとなり、後の『8つの完璧な殺人』(0118)や『9人はなぜ殺される』(0124)へと連なる作家の地歩を固めました。
刊行時の評価も高く、本作は2015年のCWA イアン・フレミング・スチールダガー賞の最終候補に残っています。邦訳は2017年に東京創元社・創元推理文庫から務台夏子訳で刊行され、版元の作品紹介でもパトリシア・ハイスミス『見知らぬ乗客』へのオマージュとして書かれた一作と紹介されています。見知らぬ二人が車中/空港で出会い、それぞれの「殺したい相手」を口にしてしまう——という古典的な始まり方を現代に置き直した骨格です。
物語は男女複数の語り手によるモノローグの連鎖で進みます。テッド、リリー、そして彼らの周囲の人物たち。それぞれの一人称が並走することで、ひとつの出来事が別の角度から照らされ、ひとりの人物が違う色に染まり直していく構成です。視点が切り替わるたびに、前の章で見えていた風景の輪郭が少しずつずれていく、という読書体験が本作の核にあります。
「信頼できない語り手」を一人ではなく複数並べてぶつけ合う構成は、クリスティ『アクロイド殺し』(1926年)以降、語り手という装置を構造の中心に据えてきた本格ミステリの系譜上にある工夫として読むこともできます。ハイスミス由来のクライム・サスペンスでありながら、語りそのものを揺さぶる作りという点で、本格寄りの読者にも刺さる種類の現代英米サスペンスです。
純粋な論理パズル型の本格を期待すると毛色は違いますが、「物語の前提が章を追うごとに書き換えられていく」感覚を求める読者には強くお勧めできる一冊です。創元推理文庫、務台夏子訳で入手できます。