本格ミステリとしての読みどころ
「九マイルもの道のりを歩くなんて生易しい話じゃない、まして雨の中ではなおさらだ」——誰かがふと口にしただけの一文。ニッキイ・ウェルトはそれだけを足場に、論理の糸を一本ずつ手繰り寄せ、まだ誰も知らない殺人事件の輪郭を組み立ててみせます。ハリイ・ケメルマンがエラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン(EQMM)1947年4月号に発表した表題作は、短編本格ミステリ史上の名品として今も語り継がれている一作です。
著者ハリイ・ケメルマン(1908-1996)はボストン生まれの作家で、ボストン大学で英文学の学士、ハーヴァード大学で同分野の修士号を取得した英文学教師でもありました。寡作で知られる人で、表題作の執筆には十四年を費やしたと自ら回想しています。後年、1964年に発表したシリーズ第1作『金曜日ラビは寝坊した』でエドガー賞最優秀新人賞を受賞し、ラビ・デヴィッド・スモール物の作家としても名を残しました。本書はラビ物以前の、もうひとつの代表作と言える短編シリーズです。
ニッキイ・ウェルトはアメリカのある大学に「スノードン英語学・文学講座教授(Snowdon Professor of English Language and Literature)」として勤める、癇癪持ちで教師ぶった知識人。語り手はその友人である郡検事で、ホームズとワトスンの構図を米国学園都市に移したような関係性が全編を貫いています。ウェルトの推理は「純粋論理」の極致と言ってよいものです。現場に足を運ばず、物証を手に取らず、容疑者と向き合いもしない。手に入れた言語情報を論理的に展開し、「この前提が成立するなら、次の命題は必然的に真」という演繹の連鎖だけで真相に達してみせる。クイーンの「読者への挑戦状」をさらに突き詰めた方法と言えるでしょう。
表題作の出発点は本当にわずか一文のセリフです。ウェルトはその言葉の論理的含意を丁寧に解きほぐし、その台詞が成立し得る状況がきわめて限定的であることを示していきます。読者は「自分でも確かめてみたい」という衝動を覚え、メモを取りながら付き合いたくなる種類の短編。読み終わった瞬間、論理パズルを解いた爽快感と「ここまで純粋に推理だけで成立する物語があるのか」という驚きが残ります。
短編集としての構成も贅沢です。一篇あたり三十分程度で読めるサイズなので、通勤電車の往復や寝る前のひと時にちょうどよい。物語の重さに圧倒される系統ではなく、論理の運動を味わう系統の本格を楽しみたいときに開きたい一冊です。
入手はハヤカワ・ミステリ文庫(永井淳・深町眞理子訳)。1976年に邦訳が出て以来、純粋論理推理を語るときに必ず参照される定番として書棚に居続けています。クイーン国名シリーズや「読者への挑戦状」を好む読者には、迷わず手に取ってほしい一冊です。