本格ミステリとしての読みどころ
「あの先生は、同時に二か所にいた」——普通であれば嘘か錯覚として片付けられる種類の話です。けれど、その目撃譚はひとりの口から漏れたものではなく、複数の証人によって繰り返されている。ヘレン・マクロイのベイジル・ウィリング博士物第8作(1950年)は、ドッペルゲンガーという古典的な怪奇モチーフを本格ミステリの論理で扱った異色の一冊で、しばしばマクロイの代表作として挙げられる作品です。
著者のヘレン・マクロイ(1904-1994)はニューヨーク生まれの作家で、ソルボンヌに学び、新聞記者・美術評論家としての経歴を経て1938年の『死の舞踏』でデビューしました。1950年には米国推理作家協会(MWA)の初代女性会長に就任し、後にエドガー賞批評部門・MWA巨匠賞を受賞しています。シリーズ探偵ベイジル・ウィリング博士は精神科医で、「すべての犯罪者は心の指紋を残す」と語る人物。マクロイ自身が「アメリカ初の精神科医探偵」と紹介してきたキャラクターで、長編13作と短編に登場します。
舞台はニューヨーク州郊外にある名門寄宿女学校。新任教師ギーゼラ・フォン・ホーエネムスは、同僚ファウスティナ・コイルに親しみを覚えるようになります。ところがファウスティナはある日突然、理由も明かされないまま学校から解雇を言い渡されてしまう。背景には、彼女が「同時に二か所で目撃された」という奇妙な噂と、その噂を恐れる教師・生徒たちの動揺が積み重なっていました。ギーゼラは婚約者である精神科医ベイジル・ウィリング博士に、解雇の真相を調べてほしいと頼み込みます。
本作の中心にあるのは「複数の人間が同じ怪を見ている/見たと信じている」という認識論的な謎です。ウィリングは精神科医として、人間の知覚や記憶がいかに信頼ならないかをよく知っています。同時に彼は、複数の証人が一致して証言している現象を頭ごなしに否定することもしません。心理学の知識を証拠評価の道具として活用していくこのスタイルは、特殊知識探偵ものの中でも洗練された形態と言えます。論理的な探偵小説の枠組みでドッペルゲンガーをどう扱うか、という難題に対するマクロイの回答が、本作を長く読み継がれる古典にしています。
ジョン・ディクスン・カーが超自然の気配を本格ミステリに織り込む作家として知られますが、本作はしばしばカーと並べて論じられる一冊です。怪奇の手触りと論理の誠実さが両立した古典として、クリスティやカーを読み終えて「黄金期米国本格にも、まだ読んでいない名作があるのでは」と思った読者にぜひ手に取ってほしい作品です。
入手は創元推理文庫(駒月雅子訳)。長らく入手困難だった作品が2014年に新訳で復活した経緯もあり、いま読める時期を逃さずに書棚に加える価値のある一冊です。