ミステリーとしての読みどころ
英国黄金期ミステリの女王のひとり、ドロシー・L・セイヤーズが1923年に世に問うたデビュー長編であり、後に長く愛される貴族アマチュア探偵ピーター・ウィムジィ卿の初登場作です。
物語は、温厚な建築家ティップス氏が自宅の浴室で見知らぬ裸の男の死体を発見する場面から幕を開けます。死体が身につけているのは、金縁のパンスニコ眼鏡ただひとつ。手のひらには労働者の胼胝、足には長く歩いた者の血豆、しかし髭は死後に剃られた痕跡があり、虫歯だらけの歯と高価な読書用眼鏡という不釣合いまで――「この男は誰なのか」という古典的かつ根源的な問いが、複数の細部によって何重にも屈折させられていきます。
並行して、著名な金融家サー・ルーベン・リーヴィが自室からパジャマ姿のまま忽然と姿を消す事件が報じられます。眼鏡なしには歩くこともままならぬはずの彼が、すべての持ち物を残して消えたのはなぜか。浴室の死体と消えた紳士、二つの謎を、犯罪捜査を「上品な趣味」とする貴族探偵ピーター卿が、執事バンターと旧友パーカー警部の助けを借りて辿っていきます。
身元不明死体というモチーフは本格ミステリの源流のひとつであり、本作はそれを正面から扱いながら、英国紳士階級の風俗描写と軽妙洒脱な会話で覆っています。シリーズ後の長大な傑作群と比べれば筆致はまだ若く、トリックの規模も控えめですが、ピーター卿という稀有なキャラクターがすでにここで確立されている点が大きな見どころです。執事バンターとの主従関係、軽佻浮薄を装いながら本質を見抜く眼力、貴族特有の韜晦と直感――後のシリーズで深化していく要素のすべてが、初期形でここに揃っています。
セイヤーズはこの作品を皮切りに、十数年にわたって長短編を発表し、クリスティと並び称される英国黄金期の二大女流の一人としての地位を確立していきます。本作はその第一歩として、ミステリ史上特別な位置を占める一冊です。シリーズを順を追って読みたい読者にとっては必ず通る入口であり、黄金期英国本格・シリーズ探偵物の系譜を辿るうえで、避けて通れない出発点と言えるでしょう。